封切と同時に見た知り合いが酷評していたので、酷評通りの内容かと思いながら見たが、そうでもなかった。
期待してみると、期待外れのがっかりが酷評につながり、最初からひどいんだろうなと思いながら見ると、そうでもないじゃんと思えるのかもしれない。知り合いが何をもって酷評をしたのかはわからないが、その根拠を聞いておけばよかったと思っている。
期待してみると、期待外れのがっかりが酷評につながり、最初からひどいんだろうなと思いながら見ると、そうでもないじゃんと思えるのかもしれない。知り合いが何をもって酷評をしたのかはわからないが、その根拠を聞いておけばよかったと思っている。
というわけで、私の感想。
見終わったときにまず思ったのは、「そっか、女性の成長物語だったのか」というもの。そして詳しくないから、説明しろと言われると困るのだが、とても精神分析的という印象をもった。「的」って何だ?と自分で自分に突っ込むのだが、詳しくないために、こんないい加減な言い方になってしまう。正確を期して調べたりするのもめんどうなので、とにかく印象だけを書くことにする。
見終わったときにまず思ったのは、「そっか、女性の成長物語だったのか」というもの。そして詳しくないから、説明しろと言われると困るのだが、とても精神分析的という印象をもった。「的」って何だ?と自分で自分に突っ込むのだが、詳しくないために、こんないい加減な言い方になってしまう。正確を期して調べたりするのもめんどうなので、とにかく印象だけを書くことにする。
精神分析的(もうここでは、突っ込まない)という印象のもとになっている一つが、やたら登場する鏡のシーン。題材がバレエだから当然なのだが、稽古場はグルリと鏡だし、楽屋にも、トイレにも大きな鏡がある。そしてその鏡に一々ヒロインの姿が映る。というより、彼女自身が鏡の中の自分に目を向ける。

こういう解釈を書くと途端に面白くなくなるのだが、この鏡に映る彼女は彼女自身でもあると同時に、彼女自身が気づいていない自分。まだ出会っていなのかもしれないし、抑圧していて気づかないのかもしれないが、とにかく、自分の知らない自分自身。
この彼女が知らない自分自身はバレエ団の仲間リリーとしても登場する。どういう自分かというと、黒鳥に象徴される邪悪な女性。欲望と野心と情熱と性欲と、それから何でしょうね。とにかく人のものを奪ってでも手に入れたいという強烈な欲望と情熱。そのためなら背徳的な行為をも厭わないとする野心。薬を使うことに象徴される快楽への貪欲さ、そしてもちろん性の快楽等々。主人公は恐る恐るながら、この快楽の世界に足を踏み入れる。邪悪な存在のリリーさんが男性とセックスをしている場面はあるが、主人公が男性とセックスをしている場面はない。なので、相手が男じゃないだけましかとか思いながら、女の成長と性が結びつけられるのは、仕方ないのかねなどと考える。多分、今のところは仕方がないのかなと思う。

冒頭で、母親が用意したクリームたっぷりのケーキを、主人公が「いらない」と言い、母親が「じゃ捨てる」と、丸ごと捨てようとするシーンがある。このときの主人公は、その脅しに屈して、ケーキを食べる。母親からの拒絶を恐れる娘と娘の成長を受け入れられない母の関係がうまく描けているシーンだと思う。道具立ても母が用意した「タベモノ」というところに、母の庇護、支配等々を受け入れる、飲み込む、自分のものとする娘が表現されているのを感じた。
そして舞台当日、とめる母を振り切って舞台に駆けつけるとき娘は母を完殺することとなる。

最後に自分殺しだが、まず邪悪な存在であるリリーを殺すことによって、その存在を自分の中に取り込む。そして黒鳥の踊りを完璧に踊った後に、刺した相手はリリーではなく自分自身であることに気づく。ここら辺、映画では妄想なのか、現実なのか、みたいな描き方になっているが、細かいこと言わずに述べるならば、最後に彼女が殺したのは、黒鳥ではなく白鳥。レッスンのときに言われていた、白鳥としては完璧だが、ただそれだけの存在であった自分。純粋で美しく汚れのない自分、欲望や野心、情熱や性欲を封じていた自分である。プログラムの白鳥の死と、主人公の死とが重なるのだが、この後彼女はどうなったのかは描かれていない。死んだのかもしれないし、駆けつけた救急車によって命を救われるのかもしれないが、私個人としては死なないでもらいたいと思う。最後に、意識が遠のこうとする彼女が「完璧だった」と呟くのだが、完璧であることと引き換えに命を失うのでは、今までの女を主人公にした物語と変わらない。「心理的に追い詰められていった彼女が次第に壊れていく」という解説を見たが、壊れた果てに死んだのでは、オフェリアと一緒ではないか。壊れるのは、それこそ成長のためのイニシエーションであり、一時的なこと。白鳥は黒鳥となり、続いて不死鳥となる、とならなければフェミニストとしては面白くない。
そして舞台当日、とめる母を振り切って舞台に駆けつけるとき娘は母を完殺することとなる。

最後に自分殺しだが、まず邪悪な存在であるリリーを殺すことによって、その存在を自分の中に取り込む。そして黒鳥の踊りを完璧に踊った後に、刺した相手はリリーではなく自分自身であることに気づく。ここら辺、映画では妄想なのか、現実なのか、みたいな描き方になっているが、細かいこと言わずに述べるならば、最後に彼女が殺したのは、黒鳥ではなく白鳥。レッスンのときに言われていた、白鳥としては完璧だが、ただそれだけの存在であった自分。純粋で美しく汚れのない自分、欲望や野心、情熱や性欲を封じていた自分である。プログラムの白鳥の死と、主人公の死とが重なるのだが、この後彼女はどうなったのかは描かれていない。死んだのかもしれないし、駆けつけた救急車によって命を救われるのかもしれないが、私個人としては死なないでもらいたいと思う。最後に、意識が遠のこうとする彼女が「完璧だった」と呟くのだが、完璧であることと引き換えに命を失うのでは、今までの女を主人公にした物語と変わらない。「心理的に追い詰められていった彼女が次第に壊れていく」という解説を見たが、壊れた果てに死んだのでは、オフェリアと一緒ではないか。壊れるのは、それこそ成長のためのイニシエーションであり、一時的なこと。白鳥は黒鳥となり、続いて不死鳥となる、とならなければフェミニストとしては面白くない。

これだけの、気も狂わんばかりの葛藤を経て黒鳥になった彼女には、真の芸術家として不死鳥になってもらいたい。女が一流になるということは、それほどに大変なことナンデス、という、強引で面白くも何ともない解釈を言いたくなるのだが、足がいろんな風におかしくなるのもそう。女が前に踏み出そうとするときに起こることナンデス。夢分析にそういうのよくあるでしょ。出かけようと思ったら靴がない夢とか、足が床にくっついて離れなくなる夢とかサ。
