ラベル 本・映画・CD の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 本・映画・CD の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2021年3月8日月曜日

2020年に観た映画から10選 ②

 

 『レ・ミゼラブル』  (フランス。監督:ラジ・リ)

映画の舞台はパリ郊外のモンフェルメイユ。あのヴィクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」の町です。
昨年「パリの恋人たち」(監督=ルイ・ガレル)という映画も観ましたが、いかにもおしゃれな、恋するパリそのものでした。
この映画が見せるのはフランスの別の側面です。移民と低所得者が多く住み、ギャングや怪しげな集団が幅を利かせる町で生き残るための争いが絶えず、警官は横暴。犯罪が多発し、町全体がフラストレーションに覆われ一触即発の状態にある。 
                         終盤、子どもたちが起こす反乱の衝撃。                    
この子たちの明日はどうなる?           モンフェルメイユで生まれ育ち今もそこに暮らすラジ・リ監督にとって、これがリアルなレ・ミゼラブルなのかもしれません。

 

『テルアビブ・オン・ファイア』                      (ルクセンブルク/フランス/イスラエル/ベルギー。監督:サメフ・ゾアビ)

撮影所に通うため毎日イスラエル側の検問所を通らなければならないサラームは、パレスチナの人気テレビドラマ「テルアビブ・オン・ファイア」のスタッフ。
行きがかり上、検問所の司令官に自分は脚本家だと言ってしまう。
妻がこのドラマの大ファンである司令官は脚本に口を出し始め、次々と無理難題を吹っ掛けるようになり…

この映画はコメディなので笑い所満載です。同時にサラームにはパレスチナ新世代の空虚感や諦念のようなものを感じました。

最後はこんなオチがあったかと呆然。
パレスチナ×イスラエル問題をこういうコメディに仕立てる離れわざに驚きますが、ゾアビ監督は願わくはかくあれかしと、笑いの中に希望を込めたのでしょうか。(矢車菊 香)

 

2021年3月6日土曜日

2020年に観た映画から10選 ①

新型コロナウィルスが世界を一変させた2020年が終わり、2021年がスタートしました。年を越しても収束せず感染は拡大し、再び緊急事態宣言が出されました。この感染症は数多の業界に打撃を与えていますが、芸術の各分野やエンタメ業界も例外ではないようです。残念ながら、これらは真っ先に‟不要不急のもの“ と見なされがちです。昨年は緊急事態宣言の期間中のみならず自宅に籠ることが多く、映画を観る機会は減りました。

少ない機会にも行くか止めるか逡巡しつつ、かつてない緊張感を持って  映画館へ足を運びました。                                                                                    以下はそうして観た中から選んだ10作品です。

最初の作品は

 『ルース・エドガー』  (アメリカ。監督:ジュリアス・オナー)

高校生のルースは非常に優秀で人望もある模範的な生徒。 ‟バラク・オバマの再来“などと言われて将来を嘱望され、その名のとおり光(ルース)の中を進む人生のように見えるが…

BLM(ブラック・ライブズ・マター)は2020年のコロナ禍にあっても大きなうねりを起こしました。この映画はそうした潮流の背景にあるものをスリリングに炙り出します。人種間の問題だけでなく世代間の、大国と小国間の、思想間の、夫婦間の….多くの問題が複雑に絡むその狭間でもがく人たち。自分は何者か探し求めるルースの苦悩。 己の良識を疑わない人の内奥にも偏見や差別感情が潜んでいないか?                                   

これを観ているあなたは?と問われている気がします。ー続ー(矢車菊 香)


2015年2月20日金曜日

セレブリティ・ゴースト

女優のルネ・テイラーさんの体験記です。
ネタばれしますので、自分で見たい方は読まないでください。
彼女の母親は、女優になることを夢見ていたのですが、断念します。
娘が生れると、エネルギーのすべてをつぎ込み、娘は女優になりました。
夫と組んでエミー賞を受賞したとき、
母は「そのトロフィーをくれたらとてもうれしいのに」、と言いましたが、娘は断りました。

ルネさんは映画を作るとき、母の出られる役を作り、母はそれをとても喜びました。
ところが、監督はそのシーンをカットすると主張し、ルネさんがいくら頼んでもだめでした。
母はとても動揺し、泣きました。そしてそのすぐ後に、死んでしまいます。
ルネさんは罪悪感に悩まされ、泣き続けました。

そしてある日、ルネさんは、自分以外の誰かが、家の中で泣いているのに気付きます。
それは、若い時そのままの母でした。
母の幽霊はその後も出続けました。
自分が持っていて、母が持っていないものに罪悪感を感じ、悩まされ続けたルネさんは、
夫の助けでサイキックに来てもらいました。
現れた母は、黒いケープをまとっていました。
結末は動画をごらんください。

これを見て思ったことは、ルネさんの母が、娘にエネルギーをつぎ込まなければよかったのに、ということです。娘なんか無視して、自分のいいようにできればよかったのに。
だけど、それには、周りの男性の目線が厳しすぎたのではないでしょうか。
まるで罠にかかったように、自分のしたことがすべて裏目に出てしまう
母という役割は、なんかおかしいと思いました。
なりたいものになるのに、自分ひとりで頑張った母と、ルネさんの差は大きすぎると思います。

文化的活動に誰もがもっと参加しやすくなるといいのになと思いました。(YO)                                 



2013年7月29日月曜日

今頃「ブラック・スワン」を見てみました。白鳥+黒鳥→不死鳥に

ブラックスワンを見た。
もちろん、レンタルのDVDで。
封切と同時に見た知り合いが酷評していたので、酷評通りの内容かと思いながら見たが、そうでもなかった。
期待してみると、期待外れのがっかりが酷評につながり、最初からひどいんだろうなと思いながら見ると、そうでもないじゃんと思えるのかもしれない。知り合いが何をもって酷評をしたのかはわからないが、その根拠を聞いておけばよかったと思っている。

というわけで、私の感想。
見終わったときにまず思ったのは、「そっか、女性の成長物語だったのか」というもの。そして詳しくないから、説明しろと言われると困るのだが、とても精神分析的という印象をもった。「的」って何だ?と自分で自分に突っ込むのだが、詳しくないために、こんないい加減な言い方になってしまう。正確を期して調べたりするのもめんどうなので、とにかく印象だけを書くことにする。

精神分析的(もうここでは、突っ込まない)という印象のもとになっている一つが、やたら登場する鏡のシーン。題材がバレエだから当然なのだが、稽古場はグルリと鏡だし、楽屋にも、トイレにも大きな鏡がある。そしてその鏡に一々ヒロインの姿が映る。というより、彼女自身が鏡の中の自分に目を向ける。
練習の合間に鏡に映る自分にふと目をやったり、あるいはポーズを確かめるように踊りながら、鏡の中の自分に目を向ける。そしてその鏡の中の自分が自分自身と違う動きをするのを見てギョッとする。慌てて確かめるともう鏡はただの鏡。   
こういう解釈を書くと途端に面白くなくなるのだが、この鏡に映る彼女は彼女自身でもあると同時に、彼女自身が気づいていない自分。まだ出会っていなのかもしれないし、抑圧していて気づかないのかもしれないが、とにかく、自分の知らない自分自身。
この彼女が知らない自分自身はバレエ団の仲間リリーとしても登場する。どういう自分かというと、黒鳥に象徴される邪悪な女性。欲望と野心と情熱と性欲と、それから何でしょうね。とにかく人のものを奪ってでも手に入れたいという強烈な欲望と情熱。そのためなら背徳的な行為をも厭わないとする野心。薬を使うことに象徴される快楽への貪欲さ、そしてもちろん性の快楽等々。主人公は恐る恐るながら、この快楽の世界に足を踏み入れる。邪悪な存在のリリーさんが男性とセックスをしている場面はあるが、主人公が男性とセックスをしている場面はない。なので、相手が男じゃないだけましかとか思いながら、女の成長と性が結びつけられるのは、仕方ないのかねなどと考える。多分、今のところは仕方がないのかなと思う。

そして母親の拒否。この母親は娘の成長と成功を願い、娘を支える応援団。母娘二人のシーンでは、母の娘に対する庇護と支配、愛着と憎悪のようなものを暗示するシーンがたびたび出てくる。簡単にふれると、部屋に入ろうとする母の手をドアでうちつけて拒否するシーンがある。これは多分母殺し。そして大量のぬいぐるみをダストシュートに突っ込むシーンがある。これは子どもである自分との決別。ひとりイニシエーション。
冒頭で、母親が用意したクリームたっぷりのケーキを、主人公が「いらない」と言い、母親が「じゃ捨てる」と、丸ごと捨てようとするシーンがある。このときの主人公は、その脅しに屈して、ケーキを食べる。母親からの拒絶を恐れる娘と娘の成長を受け入れられない母の関係がうまく描けているシーンだと思う。道具立ても母が用意した「タベモノ」というところに、母の庇護、支配等々を受け入れる、飲み込む、自分のものとする娘が表現されているのを感じた。
そして舞台当日、とめる母を振り切って舞台に駆けつけるとき娘は母を完殺することとなる。




最後に自分殺しだが、まず邪悪な存在であるリリーを殺すことによって、その存在を自分の中に取り込む。そして黒鳥の踊りを完璧に踊った後に、刺した相手はリリーではなく自分自身であることに気づく。ここら辺、映画では妄想なのか、現実なのか、みたいな描き方になっているが、細かいこと言わずに述べるならば、最後に彼女が殺したのは、黒鳥ではなく白鳥。レッスンのときに言われていた、白鳥としては完璧だが、ただそれだけの存在であった自分。純粋で美しく汚れのない自分、欲望や野心、情熱や性欲を封じていた自分である。プログラムの白鳥の死と、主人公の死とが重なるのだが、この後彼女はどうなったのかは描かれていない。死んだのかもしれないし、駆けつけた救急車によって命を救われるのかもしれないが、私個人としては死なないでもらいたいと思う。最後に、意識が遠のこうとする彼女が「完璧だった」と呟くのだが、完璧であることと引き換えに命を失うのでは、今までの女を主人公にした物語と変わらない。「心理的に追い詰められていった彼女が次第に壊れていく」という解説を見たが、壊れた果てに死んだのでは、オフェリアと一緒ではないか。壊れるのは、それこそ成長のためのイニシエーションであり、一時的なこと。白鳥は黒鳥となり、続いて不死鳥となる、とならなければフェミニストとしては面白くない。



これだけの、気も狂わんばかりの葛藤を経て黒鳥になった彼女には、真の芸術家として不死鳥になってもらいたい。女が一流になるということは、それほどに大変なことナンデス、という、強引で面白くも何ともない解釈を言いたくなるのだが、足がいろんな風におかしくなるのもそう。女が前に踏み出そうとするときに起こることナンデス。夢分析にそういうのよくあるでしょ。出かけようと思ったら靴がない夢とか、足が床にくっついて離れなくなる夢とかサ。

こうやって書いてみて、鏡、もう一人の自分、母殺し、自分殺し等々の道具立てが精神分析的という印象につながるのだなと自分でも納得。この映画は心理ホラーとか、サイコサスペンスとかいう範疇らしくて、R15らしい。確かに子どもが見たら怖いよね。夜中に夢でうなされると思う。そして、この映画、こういう精神分析っぽい解釈を全然せずに見ると、オカルトかホラーかという感じになって、「何?アホくさい」となるかもしれない。最初に書いた知り合いもそう思ったのかもしれない。

最後に、気に食わないのは、バレエの指導者が男であること。女の欲望は男によって火をつけられ、女の才能は男によって見いだされ、女の成長は男によって支えられる?この点では、この映画、確かに「ナーニ?バッカみたい」だし、このことで、この映画を「くだらない」と決めつけることもありだと思う。                         (加藤 伊都子)

2012年10月30日火曜日

「愛の残像」 * 愛の桎梏か芸術の罠か *

女優はエレベータの無いアパルトマンに住んでいる。その女優を撮るため、写真家は機材を担いで階段を上る。
そうして出会ったキャロルとフランソワ。二人はたちまち恋に落ちた。
キャロルには、ハリウッドで映画製作をする夫がいるがパリに戻ることは少なく、彼女の気持ちは冷めている。どこか投げやりで生きることに倦み、それでいて内に抱えた激しい感情を扱いかねているような、そんな不安定さを纏っているキャロル。
フランソワは思いがけない恋の訪れに、ただ無邪気に身を任せただけのように見える。
キャロルの苦悩と孤独には無頓着なままで。
「わたしが病気でも愛せる? 頭が狂ったとしても?」「永遠に愛してる?」という問いに「それ以上だ。そのずっと先まで」と答えるフランソワ。
 ところがある日突然夫が帰ってきて、服を身につける間もなく部屋を逃げ出した時から、彼はキャロルから遠ざかる。恋の始めの高まりが幻滅に変わるのはたやすい。そういうことだろうか?

フランソワを待ちわびながら、キャロルは次第に精神のバランスを崩していく。
この間、二人は電話やメールではなく手紙を交換する。

舞台は現代でありながら、この映画全体からクラシックな印象を受ける理由は、このことばかりでなく撮影手法自体(と言っても知識不足ゆえあくまで印象だが)もそうである。最新技術を駆使した映像も過激な描写も無い。ジャン・コクトーのシネマトグラフやマン・レイの写真を彷彿とさせる、シュールリアリズムの時代の趣きがあるのだ。そして全編に流れるヴァイオリンとピアノの曲は、古典的かつ普遍的な男女の恋愛悲劇に似つかわしい。

 キャロルは精神科の病院に入院するが、その治療(?)には少なからず驚かされた。今でもあのような措置がされているのだろうか。

病院にキャロルを見舞ったフランソワが彼女を連れ出そうとする場面で、大島弓子の『ダリアの帯』が即座に思い浮かんだ。その結末はあまりに異なっているけれども。

やがてキャロルは退院したが、フランソワは戻らない。すでに別の恋人が居るのだ。失意のキャロルは酒と薬に溺れるようになり、遂には死んでしまう。

フランソワは果たして、ありふれた不誠実な男なのか。
『ダリアの帯』では、妻を病院から連れ戻した後、夫は全てを引き受ける。互いが老いて死ぬまで。そして最後は超自然的とも言えるような境地に至る。これは女性にとって理想のひとつかも知れない。しかし男性であるフィリップ・ガレルによるこの映画は、もちろんそのようには進まない。(原作はフレデリック・パルドの小説『スピリット』)
 恋人から妊娠したと告げられて、すぐに「こどもなんて無理だ」ということばが出るフランソワ。ここは、斉藤美奈子の『妊娠小説』ならば鋭く突っ込みを入れる所だろう。
最初の動揺が治まった頃にはこう尋ねる。「こどもができても僕への愛情は変わらない?」なんという臆面もない幼さ。責任だとか父親としての自覚云々どころではない。思わず天を仰ぎ溜息つきたくなった。似たようなセリフは、日常のどこにでも転がっている。    

それでもフランソワは知人から家庭を持つ喜びや幸福を語って聞かされる内に、結婚に前向きになっていくように見えたのだが。

“一組のカップルが誕生するということは歴史が出会うことだ”。これはフィリップ・ガレルのことばである。しかし皮肉なことにフランソワは結局、今の恋人と共に歴史を作っていくことを選ばない。こどもを持つことへの恐怖、またそれによってもたらされる変化への恐れなのか。そこにキャロルへの贖罪の意識が幾分か入り交じっていたのか。        

フランソワは鏡の中にキャロルの幻影を見出す。一見するとキャロルの彷徨う魂が亡霊となり、黄泉の国へフランソワを連れ去ろうとするかのような描写である。(これはまるでコクトーの『オルフェ』ではないか)けれども、むしろ幻影を呼び寄せたのはフランソワの方だ。自らが置き去りにしたはずのキャロルを、逃げ場所にしようというのか。

あるいは彼はこの先に待つ人生の重さに気づくことで、遅まきながらキャロルの愛と死の重さをも同時に知ったのだろうか。
もし彼を愛の殉教者と捉える人がいたら、二人はこれで永遠に結ばれたと言うかも知れない。キャロルが望んだように?

そんなお伽噺が、絶望の果てに死んだ彼女を救うとは思えない。

フィリップ・ガレルはかつて、ニコの夫だった。
モデル、女優、そして歌手。一時期ヴェルヴェット・アンダーグラウンドにも在籍していたあのNicoである。華々しい経歴と多くの愛の遍歴。ミューズ、アイコンと讃えられながら、薬物依存でボロボロになったニコの最後は痛ましいものだったらしい。映画の中で「絶望した人間は救えない」というセリフが出てくる。彼女の『The End』を聴いたのはとうの昔になったが、歌い手の孤独の凄まじさが伝わってくるようで戦慄したのを覚えている。男性の手による作品は女性を描き得るのだろうか? 女性をインスピレーションの源泉とする芸術作品の中の多くは、素晴らしい傑作であれ醜悪な駄作であれ、そこに描かれた女性像については畢竟、男性自身がそう望んだところのファンタジーであり生身の女性の現実とは別である。



“ 美は思想を嫌う ”~ジャン・コクトー。
このことばにうなずくこともある反面、そうとも限るまいと思うのだ。おそらくその両者が牽制しあうことなく並び立ち、一つに結実した例は稀なのだろう。
時には絵画のように見える静謐で深い陰影を湛えた画面、詩のように語られることばの響き。あえて意味など問わずただそれを見る喜びに束の間浸り、まどろんでいたいという気にもさせる。この夢幻的な映画は、そんな誘惑に満ちている。芸術という名の罠なのかも知れない。                   (2012.10. 8 矢車菊 香)

2012年5月4日金曜日

映画「ニーチェの馬」*“世界の終わり”の先にあるもの*



これは言葉が不要の映画ではないか?
実はナレーションがありセリフもあるのだが、仮にそれらが無く映像と音のみであっても、観る者を圧倒するのではないか。そう思わせるほど、このモノクロの映像は力強く美しい。
冒頭でニーチェの逸話が短く語られる。そして馬! 老人が乗る荷車を引き、苦しげに上体を揺すぶりながら進む、疲れ切って汚れた馬の顔をカメラは長く捉える。
“この人を見よ”ならぬ“この馬を見よ”と言うがごとく。

連日止まない嵐。吹きすさぶ風の中の荒野。そこに建つ小さな家に老人とその娘が住んでいる。彼等の暮らしは、極端なまでに簡素で単調だ。 
娘は、右腕が不自由らしい父を着替えさせ、強風の中を井戸まで水汲みに行き、食事を作り、馬の世話をする。後は窓辺に座って、身じろぎもせずに嵐の荒野を見つめる。
父親は険しい表情で娘を凝視する。二人の間に会話はほとんど無い。食事はいつも茹でたじゃがいもが1個ずつだけ。熱いはずのそれをなぜ素手で食べるのだろうか。娘はその1個さえ、ほんのわずかしか口にせずに残す。
黙々と繰り返す日常。そこには、ただ生きるための労苦だけがあるかのように見える。
反復する動作、反復する音楽。そして気がつくと風の音までもが呼応するように、一定の旋律を反復している。

ある日、馬は命令に従わず動こうとしない。鞭打たれる馬の目から涙が幾筋もこぼれ落ちる。衝撃を受けた。馬も泣くのだろうか。 
唯一長いセリフを喋るのは、酒を分けてくれとやってきた男で、「村は気高い人達と神によって破壊された」と滔々と語る。まるでモノローグのように。これはニーチェ的人物と捉えてよいのか。
同じ繰り返しに見えた生活が、少しずつ変わっていく。井戸が涸れ、別の場所へ移動せざるを得なくなる。しかし彼等の姿は丘の向こうへ消えてから、程なく同じ道をまた戻ってくるのだ。あの男が話したとおり、おそらく村は破壊されていたのだろう。
 
行き場を失って居場所はもうここにしか無い。ところが馬はいよいよ食べることさえ拒否し、そしてなぜか火種も消えてしまう。やっと嵐が止んだその日に。
それでも父と娘は、いつもと同じようにテーブルで向かい合う。茹でることも叶わないじゃがいもを生のままで齧る父。「食わねばならん」と言いながら。最後の場面では二人の姿は、まるでイコンのようである。
 これが世界の終わりなのか。あるいは神が創り破壊したそれとは、別の世界の始まりなのか。
この映画を、昨年の大震災と原発事故後の日本で生きている私たちに重ね合わせてみることもできなくはない。今の日常は、カタストロフィと見紛う大災害に見舞われ更に目に見えない物質によって汚染された、いわば破壊された世界のその後である。そう捉えると映画は答えを示しているのではなく、むしろ観ている側に鋭く問いかけており、答えを出すのは私たち自身であると気付かされる。

 神なき世界をいかに生きるのか、それはニーチェが探究したテーマだったと言えるが、私たちはもはや新しい神を探すことはない。無自覚なままどのような形でか、破壊することに加担していたかも知れない自分自身の手で、誰も経験したことのない世界をこれから造っていかなければならないのだろう。“永劫回帰”説に依るまでもなく、“超人”の出現を渇望するのでもなく。

 タル・ベーラ監督はこれが最後の映画だという。
「言いたいことは全て語り尽くした」と。この先何か作品を作っても、それは繰り返しであり模倣でしかないと言い切っている。前作の『倫敦から来た男』からようやくタル・ベーラの映画を観始めた私は、(追いついた途端に、もう最後とは)そんな何か心許ないような気持ちになったが。ともあれ、間に合ったのは幸運だった。確かにそう思える映画と同時代にめぐり合うことが、そう度々あるとは限らないのだから。
     ( 2012. 5. 2 矢車菊 香 )

2011年10月17日月曜日

ミラル*パレスチナに咲く花*

パレスチナについて気になり始めたのはいつ頃だっただろうか。
定かでないが思えば物心つく頃から、いつも頭のどこかにその名前があった。
1948年から1994年、つまりイスラエル建国宣言の年からホワイトハウスでオスロ合意の調印に至った年の翌年までのパレスチナ。この映画はその歴史の中で生きた女性たちを描いている。原作は、エルサレム生まれのパレスチナ人で主にイタリアで活動するジャーナリスト、ルーラ・ジブリールの自伝的とも言える本らしい。
 
冒頭のクリスマス・パーティが、まず意外だった。
エルサレムのパレスチナ人というイメージから遠い気がしたのだ。とは言っても、確かにここがキリスト教の聖地でもあることを考えれば、別段不思議はないのかも知れない。
もうひとつ意外だったこと。そのパーティで賑やかにお客をもてなしているのは、ヴァネッサ・レッドグレイヴではないか。この人をスクリーンで見るのはあまりにも久しぶりで、似ているけど本人?と一瞬訝しんだが、目の表情や雰囲気はすぐに「ジュリア」の頃を思い出させた。但し彼女は主役ではなく、サプライズのごとく登場したのはこの場面だけである。
 
パレスチナとイスラエルの間にある問題は、その起源を辿れば旧約聖書の時代にまで遡ることになり、生半可な知識で語るのは難しい。
パレスチナの人々の暮らしはどのようなものだろうか。自治区という名の占領地で暮らす人々、生まれた土地を追われ周辺の国々の難民キャンプで暮らす人々。パレスチナ人とひと括りにはできない複雑な違いはあるだろうが、目に浮かぶのは平穏な生活からはかけ離れた弾圧と、武力による攻撃にさらされる姿だ。
しかし、この映画の主要な舞台となっている“ダール・エッティフェル(子どもの家)”
は、まるでそこだけがユートピアさながらの別世界に見える。
これはユダヤ民兵組織によって親を殺され孤児となった子どもたちを養育するため、1948年、ヒンドゥ・ホセイニが私財を投じて設立した実在の寄宿学校である。彼女は1994年に死去するまで、生涯を孤児たちのために捧げた。

主人公であるミラルもこの学校で教育を受けた一人だ。
ミラルがここへ来るまでには、入水自殺してしまう彼女の母親を始めとして多くの人々の苛烈な人生が交錯している。母の死後、彼女は父によって慈しんで育てられたので孤児とは言えないかも知れないが、実はその父とは血縁関係がないことが後に明かされる。

学校の中は“守られた場所”だ。ヒンドゥは終始一貫して政治には関わらない姿勢で、その門の外側にある過酷な現実から子どもたちと学校を守ってきた。
ここで育てられ教育を受けた子どもたちは幸運と言っていいだろう。
しかし、17歳になったミラルは難民キャンプへの訪問をきっかけに、外側の世界を知ることになる。武装したイスラエル軍が突然現れパレスチナ人の家を破壊する。一瞬で生活の場を奪われ茫然と立ち尽くす人々。それが日常的光景になっているという理不尽を目の当たりにして、もう知らなかった時の自分には戻れないのだ。
やがてミラルは、投石による抵抗運動インティファーダにも参加し、活動家の青年とつきあうようになるが、、

この映画の監督、ジュリアン・シュナーベルはユダヤ系アメリカ人である。
彼の両親はユダヤ人互助組織に関わっていたという。
シュナーベルは元々画家であり、映画を撮るようになってからもアート畑の人というイメージがあった。彼がこの映画を撮った本意はどこにあるのだろう。
興味深いところだが、正直に言うと映画を観た後もそこがよくわからなかった。
彼女たちの実人生の重さに比して、その描き方は上滑りの印象を受け、焦点が曖昧な網羅的描写の底の浅さも感じた。期待して観たのだが、中途半端な気分が残った。

ミラルはパレスチナを後にして外の世界へ出て行く。
それが彼女にとって生き延びる道だったのだろう。ただ、そのことを即“希望”と言い表すことには引っかかりを覚えた。
パレスチナとイスラエルの関係は、和平へ向けてわずかに進展したかに見えてまた後退する繰り返しで、パレスチナの人々がおかれている状況は厳しいままだ。イスラエルの実質的な後ろ盾である米国は、解決に向けて動く気が有りや無しや、問題がたな晒しになっている感がある。
数日前のテレビには、パレスチナの国連加盟申請について演説をするアッバス氏の姿が映っていた。そのニュースを見ながら、私はパレスチナの音楽グループ、サーブリーンのことを思い出していた。                       
1992年に彼等は来日し、東京と京都の2箇所のみでコンサートを行った。天井の隙間から空が見える京大西部講で、私は彼等の演奏を聴いたのだ。
昨年来、巨大なうねりとなって中東の国々に革命をもたらした “アラブの春”、その風はパレスチナにも吹いているだろうか。


  そして仲間たちがなぜ奪われたのか
  なぜ僕たちの歴史が大破局を迎えたのか 
  二度も 三度も迎えたのか 
  その理由を知らなければならないのだ
                 

「故郷を愛する歌」  サーブリーンCD『預言者の死』より
     (2011.9.28 矢車菊 香)

2011年7月22日金曜日

「100000年後の安全」と「ミツバチの羽音と地球の回転」     * 震災後に観たふたつの映画をめぐって *    

                                       東日本大震災が起きてから4ヶ月が経とうとしている。
いつかは醒める悪夢ならあるいは映画の中の出来事だったら、と思わずにいられなかった光景は紛れもなく現実であり、それをどう受け止め何をしたら良いのか分からないままに日が過ぎた。新聞やテレビのニュースに釘付けになりインターネットで情報を探し、勉強会やデモに参加したり現地へ行ってきた人の話を聞いたり、本を読んだり義援金カンパしたり、せいぜいそんなことをしただけだ。
 季節は移り梅雨から夏へ。大雨や高温多湿が被災地の衛生状態を更に悪化させるのではないか。いまだに避難所生活を余儀なくされている人々のストレスは限界に来ていないか。         
 原発事故は収束するどころか深刻な状態が続いている。それが被災地の復興を妨げる原因にもなっている。放射能汚染さえなければ再開できたはずの、農業や漁業を始めとする地元の産業従事者が廃業に追い込まれる。線量値の高い地域に住む人々の健康、とりわけ子ども達への影響はどうなのか。情報が錯綜し確かな判断基準がない中、移住するにせよ留まるにせよ、多くの困難を伴うのだろう。待った無しの状況のはずだが、その解決の為に動くべき国の政治は又も混乱しているようで、何がどこまで進んでいるのかが見えてこない。
 そんなさなかに、原発に関連するドキュメンタリー映画を2本観た。

1本目は「100000年後の安全」。
フィンランドの放射性廃棄物最終処分場、オンカロが主役だ。
オンカロとは“隠された場所” という意味で、10万年は放射性物質が無害化するのに要する時間らしい。これは、その間壊れないことを想定して設計されたという、地下深く掘り進めながら建設中の貯蔵施設なのだ。
映画はマイケル・マドセン監督が、未来の人間に向けて語りかけるナレーションと
技術者や政府関係者、掘削作業員等へのインタビューを中心に進む。
 使用済みの“ゴミ”となってからも危険な放射線を出し続ける核燃料。(しかも10万年もの間?)そんなものをこの先ずっと使い続けることが果たして合理的だろうか。しかしここでの議論は、未来の人間がオンカロの扉を開けるか否か、現代の人間はどんな方法でメッセージを残せばよいかといったことに終始する。原子力発電そのものの是非については全くといっていいほど言及されない。
10万年間誰もその場所に近づかず気付かず、もし気付いても決して掘り起こさないことが安全を守る条件だというが、まずそれ以前にそれほどの長い間、どんな天変地異があるかわからないではないか。たとえ一国内では封じ込めたとしても、他の国で問題が発生すれば影響は免れないだろう。チェルノブイリがそうであったように、残念なことに今、福島原発の事故もそのことを示していないだろうか。撒き散らされ漏れ出した大量の放射性物質は、原発からの距離如何によらず風に乗り海流に運ばれ、日本だけでなく既にもっと広範囲に亘っているかも知れない。このまま進めば果たして10万年後、人類が地球上にまだ今のような形で住んでいるだろうか?

 映像はスタイリッシュで、怖さよりも美的な印象を受ける。原発内部で作業する白い防護服を着た人々を映した場面で流れてきた音楽のイントロを聴き、ん?これは!と思ったらクラフトワークの「放射能」だった。ここで思わずニンマリしてしまった。この映像にこの曲、70年代なら衝撃的だったかもしれないが、2011年の今、この古典的なテクノポップとの組み合わせはなんともレトロというか、、。クラフトワークがベタに似合いすぎるだけに、こう言っては何だがまるでミュージックヴィデオを見ているような気分になった。
この映画の製作は2009年。もし3・11以前に観たらかなり印象が違っていただろう。想像を超える出来事が実際に起き、今その渦中にいる人間にとって10万年後の議論は遠く感じる。しかし同時にその途方もない数字は、捨て場がどこにもない危険なもの、扱ってはならない代物に手を出してしまった取り返しのつかなさに思い至らせ、慄然とする。

2本目は「ミツバチの羽音と地球の回転」。
鎌仲ひとみ監督による日本映画だ。
中国電力が原発建設計画を進めている山口県の上関町田ノ浦。ここからわずか3.5Km先にある住民約500人の小さな島、瀬戸内海に浮かぶ祝島が舞台だ。
 美しい海と自然がもたらす豊かな恵み。そこで暮らす人々の日々の営み。
この島でとれる枇杷や魚や米等々、どれもが美味しそうで食べてみたくなる。
明るく穏やかで、慎ましく幸福に満ちた風景に原発の物々しさはいかにも不似合いだ。
もちろん不似合いなだけでなく、それはこの風景を一変させ、二度と元に戻せなくなるだけの恐ろしい力を持ってもいる。原発が建ち稼働すれば、原子炉を冷やすための海水が取り込まれ熱は海へ放出される。7度上昇した海水が、毎秒190トン海へ流され続ける。それは潮の流れを変え、海の生き物にダメージを与えるのだ。そして、ひとたび事故が起きればどうなるか。この映画は2010年製作だが、2011年の我々は既にそれを知っている。

この島の人々は28年もの間、建設反対を表明し闘い続けてきた。高齢化が進み、毎週行われているデモの参加者はほとんどが年配の人達である。シュプレヒコールも心なしかのんびりしていて思わず笑みを誘う。しかし、役場で職員や警備員とやり合う場面は壮絶だ。女性も男性も一歩も退かず逞しい。夜明けから日没まで毎日通い続ける、埋め立てを阻止するための行動はまさに命がけだ。海上で中国電力の社員と、それぞれの船の上から直接対決する場面は圧巻である。それは彼等の生活の中からじかに発せられる生の言葉だ。
全体から見ればミツバチの羽音ほどに小さなものが、強大な権力と対峙している図かも知れないが、その姿は誇り高く気概にあふれ感動的だ。

映画はまた、スウェーデンで自然エネルギーによる地域の自立に取り組む自治体を紹介する。オーバートオーネオ市では、木質ペレットを使った温水による地域暖房が使われている。ある男性は、「日本は森林があり自然資源が豊富なのに、それを使わないで石油を買い続けている。わけが解らないよ。」と言う。ストックホルムで、風力で充電している電気自動車に乗った男性は、日本では電力が自由化されていないと聞くと驚き、それは変えなきゃだめだと声を大にして言っていた。スウェーデンは12年前から電力市場を開放しており、消費者は電気を選ぶことができるそうだ。
祝島でも、エネルギー自給率を高めて島の生活を守りたいと考えている人がいる。Uターンしてきた山戸孝さんは32歳で島の最年少。彼は反対運動の活動と同時に、原発に依らない自立する道を模索してもいる。
 

福島原発の事故は世界中に波紋を広げ、諸外国で脱原発への動きが勢いを増している。
それは当然の成り行きだと思うが、それでも原発推進派の人達は原発なしで電力不足をどう解決するのかと言うだろう。しかし彼等とて、自身が被爆する事態になることは是としないだろう。確かに国内では、夏に向かって節電が喧伝されているが。
一方で、仮に全ての原発を停止しても、火力や水力で事足りるという意見もある。ただ、これらを増やせば大気汚染や環境破壊の問題が大きくなる。では自然(再生可能)エネルギーはどうか。つまり太陽光、太陽熱、風力、地熱、バイオマス等だが、これらも長所ばかりとは限らずコストの問題や安定的供給の難しさなどがあり、これだけで万事解決という訳には行かないようだ。
こういう時こそ専門家たちには本領発揮してほしいものだ。日本の優れた科学技術を、あらゆる頭脳、知識を総動員して持てるものを全て使って、(持続可能という語はいささか聞き疲れたが)破滅への近道とは別の、新たな方向を提示してくれないだろうか。


被災地から遠く離れた場所で、一見まるで何事もなかったかのように日常を送っている人々。私もその一人だ。しかし、あの日以来確実に何かが変わったのは間違いないだろう。多発する地震と多数の原発があるハイリスクな所に私たちは住んでいる。西日本でも、同じことがいつ起きても不思議ではない。
ただ、強い緊張に長く耐えるのは難しく、考え続けることも時には苦痛だ。それでも逃げずに考え続けるしかないのだろう。この先どんな社会を望み、そのために自分自身がどう生きるのか、どんな選択をするのか。そして今も被災地の人々が大変な状況にあることを忘れず、自分にできることは何なのか考えたいと思う。
                                (2011.7.10 矢車菊 香)

2011年5月25日水曜日

「ブロークバック・マウンテン」 *ただひとつ輝く場所* ②

山を降りて4年後、既にそれぞれの家庭を持つ二人はジャックからの便りで再会を果たす。それから20年に亘り、途切れ途切れに秘密の逢瀬を重ねるようになる。


ジャックはテキサスで金持ちの娘に逆ナンされる形で結婚したが、妻の親から疎んじられている。イニスと滅多に会えないことも彼には不満だ。二人で牧場をやろうと何度もイニスに持ちかけるが、イニスはそれに応えない。彼自身が離婚し、妻にジャックとの関係を知られていたと分かってからも。

イニスが幼い頃、父親が見せしめにしたリンチによる同性愛者の死が、彼の中に深い傷を残していた。ジャックと過ごす山での安らぎの時間と、あの凄惨な死の暗示とが背中合わせにある恐ろしさ。刷り込まれた恐怖はイニスの内部で更に強烈さを増し、彼を縛った。後ろめたさで身動き取れず、自分の本心がどこにあるのか判らない。望んで得たはずの家庭は壊れ、多くのものを失っていく。父の教訓は、イニスを幸せにはしなかった。
彼は内なるホモフォビアから自由になれず、別の生き方もあることに思い至らなかった。

やがてジャックとの永遠の別れが訪れる。ここにきてようやくイニスは、ジャックの思いの深さを知るのだった。二人だけで過ごしたあの山での、最も幸福だった時を胸にしまいこんで、彼はおそらくこの先一人で生きていくのだろう。
                            
最後に流れるウイリー・ネルソンの「 He Was a Friend of Mine」があまりにも似合いすぎていて、泣かずにいられなかった。ワイオミングにはイニスのように孤独な、年老いたカウボーイが実際に少なからずいるのだという。台湾出身のアン・リー監督によるこの映画は数々の賞を取ったが、一方で上映ボイコット運動がおきるなど賛否両論を巻き起こしたらしい。遅ればせながら観てよかったと思う。久しぶりに沁みる映画だった。(矢車菊 香)

2011年5月24日火曜日

「ブロークバック・マウンテン」 *ただひとつ輝く場所* ①



はじめは「ウッドストックがやってくる」について書けたらと思っていた。あの伝説の野外コンサートの舞台裏を描いた映画というので食指が動いたが、結果は軽く失望。それでも監督のアン・リーが気になり、情報を探す中で目に留まったのが「ブロークバック・マウンテン」だ。日本での公開は2006年、そういえばこのカウボーイ二人のポスターを見た記憶がある。5年遅れの出会いとなった。                                         
 1963年、ワイオミング。牧場主のもとへ仕事を求めてやって来たイニスは、そこでジャッ クと出会う。二人とも本物のカウボーイ、といえば聞こえは良いが定職を持たない貧しい 季節労働者だ。二人はひと夏のあいだ、山で放牧する羊の番をすることになる。

目を見張る雄大で美しい山の自然。その懐で、馬に跨った二人が並んで尾根を行き、川を渡り、羊の群れを追う光景は、まるで往年の西部劇のようだ。
無骨で朴訥としたイニスは細々ながら金を貯め、この仕事を終えて山を降りたら結婚することになっている。貧しくとも妻と子のいる幸せな暮らしを思い描いていたことだろう。一方のジャックは陽気ではあるが、ロデオで日銭稼ぎをしながらどこか風まかせで、地に足の着かない暮らしをしてきた。そんな二人が8月でも雪の積もる日がある山の上で、野営しながら厳しい環境で仕事をするうちに、しだいにうちとけて行く。

ある夜、外で寒さに震えるイニスをジャックはテントに招きいれる。それこそ運命の一夜だった。ジャックが誘いをかけほとんど無言のまま、二人は性関係に至る。それは唐突で生々しくもあったが、なぜか不自然とは感じなかった。ジャックは口にこそ出さないが明らかに、自分がゲイ(正確にはゲイ寄りのバイ?)だと自覚しており、それなりの経験もあったのだろう。ではイニスは?これまでの会話の中に「おまえは罪深いだろうが、俺の身はまだ清いぜ」という軽口のようなイニスのセリフがあった。経験がまだ無いことを意味しているとしたら、彼の初体験の相手はジャックということになるが、、、

翌朝、あれは一度限りのことだと言いながら、夜にはまた抱き合って眠る二人。
けれどもこの仕事が済めば、蜜月も終わりだ。イニスの後姿を見送る、ジャックのまなざしがせつない。         

この映画は男性同士の恋愛をごく自然に描いているように見え、違和感がない。類型的なゲイ“らしさ”の誇張はまるで無い。静かで淡々としているが、口数少ない登場人物たちの心情がリアルに伝わってくる感じだ。こういう映画を観たのは初めてかもしれない。
       ・・・・・明日も続きます・・・・・         (矢車菊 香)