2012年5月29日火曜日

2012年5月9日水曜日

おかしい花

堺市内のとある場所の、ポンポンデイジーです。
おかしいのがいくつかあります。
去年もおととしも、こんな花は見たことがありませんでした。
放射能の影響かもしれないと思い、不安になりました。
きまった場所にあるので、肥料か何かに放射能が含まれているのでは、と思います。
「関係ない」と言われるかもしれませんが、投稿しておきます。  y
      

2012年5月4日金曜日

映画「ニーチェの馬」*“世界の終わり”の先にあるもの*



これは言葉が不要の映画ではないか?
実はナレーションがありセリフもあるのだが、仮にそれらが無く映像と音のみであっても、観る者を圧倒するのではないか。そう思わせるほど、このモノクロの映像は力強く美しい。
冒頭でニーチェの逸話が短く語られる。そして馬! 老人が乗る荷車を引き、苦しげに上体を揺すぶりながら進む、疲れ切って汚れた馬の顔をカメラは長く捉える。
“この人を見よ”ならぬ“この馬を見よ”と言うがごとく。

連日止まない嵐。吹きすさぶ風の中の荒野。そこに建つ小さな家に老人とその娘が住んでいる。彼等の暮らしは、極端なまでに簡素で単調だ。 
娘は、右腕が不自由らしい父を着替えさせ、強風の中を井戸まで水汲みに行き、食事を作り、馬の世話をする。後は窓辺に座って、身じろぎもせずに嵐の荒野を見つめる。
父親は険しい表情で娘を凝視する。二人の間に会話はほとんど無い。食事はいつも茹でたじゃがいもが1個ずつだけ。熱いはずのそれをなぜ素手で食べるのだろうか。娘はその1個さえ、ほんのわずかしか口にせずに残す。
黙々と繰り返す日常。そこには、ただ生きるための労苦だけがあるかのように見える。
反復する動作、反復する音楽。そして気がつくと風の音までもが呼応するように、一定の旋律を反復している。

ある日、馬は命令に従わず動こうとしない。鞭打たれる馬の目から涙が幾筋もこぼれ落ちる。衝撃を受けた。馬も泣くのだろうか。 
唯一長いセリフを喋るのは、酒を分けてくれとやってきた男で、「村は気高い人達と神によって破壊された」と滔々と語る。まるでモノローグのように。これはニーチェ的人物と捉えてよいのか。
同じ繰り返しに見えた生活が、少しずつ変わっていく。井戸が涸れ、別の場所へ移動せざるを得なくなる。しかし彼等の姿は丘の向こうへ消えてから、程なく同じ道をまた戻ってくるのだ。あの男が話したとおり、おそらく村は破壊されていたのだろう。
 
行き場を失って居場所はもうここにしか無い。ところが馬はいよいよ食べることさえ拒否し、そしてなぜか火種も消えてしまう。やっと嵐が止んだその日に。
それでも父と娘は、いつもと同じようにテーブルで向かい合う。茹でることも叶わないじゃがいもを生のままで齧る父。「食わねばならん」と言いながら。最後の場面では二人の姿は、まるでイコンのようである。
 これが世界の終わりなのか。あるいは神が創り破壊したそれとは、別の世界の始まりなのか。
この映画を、昨年の大震災と原発事故後の日本で生きている私たちに重ね合わせてみることもできなくはない。今の日常は、カタストロフィと見紛う大災害に見舞われ更に目に見えない物質によって汚染された、いわば破壊された世界のその後である。そう捉えると映画は答えを示しているのではなく、むしろ観ている側に鋭く問いかけており、答えを出すのは私たち自身であると気付かされる。

 神なき世界をいかに生きるのか、それはニーチェが探究したテーマだったと言えるが、私たちはもはや新しい神を探すことはない。無自覚なままどのような形でか、破壊することに加担していたかも知れない自分自身の手で、誰も経験したことのない世界をこれから造っていかなければならないのだろう。“永劫回帰”説に依るまでもなく、“超人”の出現を渇望するのでもなく。

 タル・ベーラ監督はこれが最後の映画だという。
「言いたいことは全て語り尽くした」と。この先何か作品を作っても、それは繰り返しであり模倣でしかないと言い切っている。前作の『倫敦から来た男』からようやくタル・ベーラの映画を観始めた私は、(追いついた途端に、もう最後とは)そんな何か心許ないような気持ちになったが。ともあれ、間に合ったのは幸運だった。確かにそう思える映画と同時代にめぐり合うことが、そう度々あるとは限らないのだから。
     ( 2012. 5. 2 矢車菊 香